「近頃思うこと」

 

 今日、某写真クラブの写真展に行ってきた。夕方帰宅し観てきた写真展を振り返って

みた。不思議なことに、展示した方々の顔は思い出すが、その方々の作品を思い出せない。

殆ど記憶にないのだ。私も耄碌したもんだ。すぐに思い出せないのだ。

このような現象は、ここ数年つづいている。今度は頭の中の片隅に留めておこうと努力するが

三日もたてば全く覚えていないのだ。

いろいろ考えてみた。もしかして認知症が進んでいのかも知れない。いや、写真展そのも

のがマンネリ化していて記憶に残らないのかもしれない。

 

確かに、案内状をいただき、勇んで行くが殆ど雑誌やカレンダーでよく観る写真で

過去に発表された事象を、なぞった作品ばかり繰り返し見させられているように感じる。

すでに見飽きてしまっているのだ。勿論、それらは間違なく作品なのだが。

 

「出来ることなら一枚でも観る人の足を止めるような作品があればいいのだが」と

頭の中で、独り言を呟いている。

展示された作品は、皆素晴らしい。色合い、表現意図、構図など実に素晴らしい。

しかし、先にも述べたが過去の事象を上手に、綺麗にナゾッタに過ぎない作品が大部分だと

感じるのだ。

これは私の独りよがりの視方に過ぎないのだが。大部分が、風景、お祭り、花でパターンが

決っているように思われる。

ただ、目の前に並んだ光景をコピーしているように思えるから不思議だ。

自分なりに感じた光景を、目的を意識して意図的に深く考えて撮ったようには見えない

のだ。ただプロが撮った真似をしているように見受けられる。

上手に、綺麗に、構図にこだわり、反射を抑えて。

そもそも綺麗で、彩がいい被写体のみを狙うので素晴らしい作品に仕上がるのは当然である。

 

反面、風景写真に見られるのだが、綺麗な被写体の隣には、人間に破壊された山や川が

横たわっている場合が非常に多い。

写真は、感性で切り抜くものだそうだが、隣の荒らされた自然があまりにも寂しそうだ。

それも撮ってあげて、我々人間の発展の犠牲になった裏側をも見せては如何なものだろうか。

 

隣にある光景から、我々に何かを訴えている声が聞こえてくる。

自然が我々人間に問いかけている声をもっともっと撮ってあげようではないか。

 

                                       2018年6月

 

                       公益社団法人 日本写真協会 会員 笹﨑正明